#ミクロネーション
ミクロネーション(Micronations)は、モデル・カントリーや新規国家プロジェクトとも呼ばれ、独立国家または州と酷似しているが、各国政府や主要国際機関によって認められていない実体である。別名ミクロ国家、自称国家とも。
概説
これらの“国家”は、しばしば書類上やインターネット上、或いは創造者の心の中にのみ存在する。ミクロネーションは、実際の独立運動や民族自決運動とは異なり、個人または家族によって小規模に行なわれ、しばしば風変わりなものと見なされることが多い点が特徴である。
いくつかのミクロネーションは、コイン、国旗、郵便切手、パスポート、メダル等のアイテムを販売することによって活動の幅を広げている。
「ミクロネーション」という用語は、1970年代以降に生じた数千もの小さな国家主体を指す造語である。この専門用語が定着すると、19世紀前半に存在したが、認められなかったいくつかの政治的主体にも使われ始めた。
シーランド公国(シーランドこうこく、英語: Principality of Sealand)は、北海の南端、イギリス南東部のサフォーク州の10km沖合いに浮かぶ構造物を領土と主張する自称国家。
全国連加盟国及びバチカン市国よりも面積が小さいため、世界最小の国家を自称する。ただし、2014年現在、国連に加盟する193か国及びバチカン市国の計194か国の中でシーランド公国を国家承認している国はない。
The Principality of Sealand – Become a Lord, Lady, Baron or Baroness
シーランド公国亡命政府(シーランドこうこくぼうめいせいふ)は、ドイツに本拠を置く、シーランド公国の亡命政府である。シーランド公国は、イギリスの南西沖に浮かぶ構造物を領土と主張する自称国家であるが、内紛によって首相がドイツに逃亡し、亡命政府を樹立した。
Principality of Sealand – The official website of the Government
ミニ独立国(ミニどくりつこく)は、日本国内において地域振興や自然保護運動の手段として「建国」された架空の国家。地方自治体や商工会・観光協会などが主体となって運営していることが多い。1977年(昭和52年)に「独立宣言」をした新邪馬台国(大分県宇佐市)が第1号。
東北地方の小さな村が突如日本から独立するという1981年(昭和56年)に刊行された井上ひさしの小説『吉里吉里人』がヒット。1982年(昭和57年)、小説の舞台と同名の吉里吉里という地区を抱える岩手県大槌町が、町おこしの一環として「吉里吉里国」として独立宣言する。これをきっかけにミニ独立国の建国が相次ぎ、ミニ独立国ブームが起こり、最盛期には200カ国を数えた。1986年(昭和61年)にはミニ独立国オリンピックが銀杏連邦(東京都八王子市)で開かれ、テレビのゴールデンタイムで放送されるなどの盛り上がりを見せたが、乱立によりインパクトが無くなったこと、後発国の無計画性などで飽きられ、ブームは沈静化した。1990年代から財政難や運営主体となっていた自治体の合併、「国家元首」や「国民」の高齢化などさまざまな理由で減少し、2000年代に活動しているミニ独立国は50カ国に満たないといわれる。
吉里吉里国(きりきりこく)は、井上ひさしの小説『吉里吉里人(きりきりじん)』(新潮社、文庫にも収録)に登場する架空の国。ある日、東北地方の一寒村(物語上では宮城県・岩手県の県境付近にある吉里吉里村、人口は約4200人)が突如独立宣言して誕生する国家。
日本国とは違った「イエン」を独自通貨とし、地元方言を国語に定め、さらには科学立国を称し、様々な怪しげな実験が国内において繰り広げられている。
ミニ独立国
上記に関連して、実在の吉里吉里駅を擁する岩手県上閉伊郡大槌町が、1982年に町おこしの一環として吉里吉里国として「独立宣言」をした。マスコミの注目を集め観光客誘致に成功し、1980年代のミニ独立国ブームのきっかけとなった。しかし1990年代に入りブームの沈静化や景気後退の影響から、ミニ独立国としての活動は活発に行わなくなった。
ジョシュア・エイブラハム・ノートン(Joshua Abraham Norton、1819年? – 1880年1月8日)は19世紀のアメリカに実在した王位僭称者。
自身を皇帝ノートン1世(Emperor Norton I)と称し、更には当時アメリカと敵対状態にあったメキシコの保護者として帝位請求を行った。
概要
イギリス生まれのイングランド人で、南アフリカで幼少期を過ごした資産家の子息であった。彼は1849年にサンフランシスコに邸宅を購入してアメリカに移り住み、父親から受け継いだ遺産4万ドルを運用して一財を作った。成功した実業家として裕福な生活を送っていたが、ペルー米の投機に失敗して破産した事を契機に正気を失ったとされている。
彼の行為は打算や野心ではなく、狂気に陥った事によるものだと考えられるが、彼の皇帝として要求した内容は温和なものであり、実際に先進的で価値のある発想が多く含まれていた。特にサンフランシスコにかかる大橋とトンネルの建設というアイデアは後に実現されている(サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ、トランスベイ・チューブ)。
当時全くの無名で前歴も不明であった人物の大胆な帝位請求は真剣にこそ受け取られなかったが、次第にサンフランシスコの市民達の間で知られた存在となっていった。多くの人は君主制には賛同しなかったが「皇帝勅令」に親しみ、温和で平和的な人格から市民にとって愛すべき著名人として敬愛された。晩年には本当にノートンが王族の落胤や末裔なのではないかと考えるものも現れるほどで、市民による葬儀には3万名の群集が詰め掛けた。
アナタハンの女王事件(アナタハンのじょおうじけん)とは1945年から1950年にかけて太平洋マリアナ諸島に位置する孤島アナタハン島で発生した、多くの謎が残る大量死亡事件。別名「アナタハン事件」「アナタハン島事件」。
概要
サイパン島から北方約117キロに位置するアナタハン島は、東西の長さ約9キロ・幅3.7キロの小島で、最高点は海抜788メートルというなだらかな小島であった。
この太平洋の孤島アナタハン島で、1人の女「比嘉和子」と32人の男達が共同生活していくうちに、男性達がその女性を巡って争うようになり、男性が次々に行方不明になったり殺害されたりしたことで島はサバイバルの様相を見せた事件である。
南洋興発株式会社社員の妻である比嘉和子、同社社員の男性上司、帝国陸海軍の軍人・軍属31人の計32人(日本人)は当初は全員で共同生活を送っていた。しかし、そのうち全員が1人の女性を巡って争うようになり、1945年8月の終戦までに行方不明者が2人出た。1945年8月の終戦で、米軍は拡声器で島の住人達に日本の敗戦を知らせたが、アナタハン島の日本人は誰も信じなかった。
1946年8月、彼らはB-29の残骸を発見し、残骸の中から発見された4丁の拳銃を組み変え、2丁の拳銃が作られた。これ以降、銃の存在が権力の象徴となり、以来女性を巡って、男性達の間で公然と殺し合いが行われるようになった。
この後、1950年6月、米国船の救出によって女性が脱出し、翌1951年6月には生き残った男性19人も救出された。この事件で死亡した男性は行方不明を含め13人にのぼった。
アナタハン島の女を巡る一連の怪事件が戦後、大々的に報道され、日本国内で「アナタハンブーム」となり、女性のブロマイドがとても売れた。女は男を惑わす女として報道され、大衆の好奇の目に晒された。映画化もされた。
終戦の混乱と米国信託統治の関係から権力空白地帯で発生した事件のため、現在でも死亡の原因について不明な点がある。
マリーバードランド(英語: Marie Byrd Land)は、南極にある地域の名称。南極大陸の西部(西南極)、東南太平洋の方向にあたる。ロス海・ロス棚氷の東、エルスワースランドの西の領域である。
この地域は1929年、アメリカ合衆国の海軍軍人リチャード・バードが率いた探検隊によって探検が行われた。地名はバードの妻マリーの名にちなむ。地理的な定義では西経103度01分から158度01分にかけて広がる。
南極にはさまざまな領有権の主張があるが、マリーバードランドを含む西経90度から西経150度の地域(ピョートル1世島を除く)は、いずれの主権国家によっても領有を主張されていない。この無主地を「マリーバードランド」の名で呼ぶこともある。